2021.8.29、石巻でのあるライブの日記。
絵本の家みたいな白い建物、その中での一夜。
ステージにはピアノやいくつかの椅子があった。
照明が落とされた中に人が入ってきて、静かにライブは始まった。
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ピアノを聴いた瞬間、思わず口元を押さえた。
ものすごい速さでいろんなことを考えたけれど、歌い始めた瞬間に全部消し飛ぶ。
全身にさざ波が立ったようだった。
思い出さないはずがない。
2016年4月30日。2016年6月4日。
人生の意味。
人生でいちばん聴きたかった曲。
誰かのために灯りを灯す、今のMr.Childrenの原点。
私が大好きな現在のMr.Childrenの原点となる曲、その曲が今目の前で歌われていた。
前屈みになったり、身を捩ったり、想いを絞り出すように彼は歌う。
サビに入って、「あぁ今歌ってる歌、本当にあの歌なんだ」、って当たり前のことを実感する。また全身がぞわっと反応する。
この曲をずっとMr.Childrenのライブで聴きたいと思って生きてきた。
今のこれは叶っているとは言わないかもしれない。
でも、今ここで歌われているこの歌は、紛れもなく「誰かのために灯りを灯す」がための歌だ。
本当に今「誰かのため」を想って歌われているんだって、言葉にされなくてもわかる。
いちばん聴きたかったこの歌だ。
2番の歌詞を聴きながら、いろんな想いが紐づいて、自然に涙が溢れていた。
それからはもうずっと。
(でもたけしはちょっとピアノ間違えすぎだったね(笑))
■花
前曲からの花、シングルに収められた2曲の並び順。
ここにこの曲が来て文脈が生まれたことによって、改めて1曲目の意味が提示されたんじゃないかな。
1曲目はやっぱりいちばん聴きたかった想いの乗ったその歌だった。
そう改めて思って一層涙が込み上げてしまう。
1番サビで白い照明が壁面いっぱいに花のように広がって息を飲んだ。
2番サビでは薄緑みたいな優しい光。
Cメロはワンマンと同じく赤。
ラスサビでまた白い照明に戻る。
重力と呼吸でもやっていて、比較的記憶に新しい曲。
なのにこんなにも背負っているものが、いちばん手前に浮かんで聴こえる歌詞が違う。
「悲しみをまた優しさに変えながら生きてく」。
そうであってほしいと祈るような歌い方だった。
■糸
暖色の照明ととにかく「声めちゃ出てる……歌うま……」の印象。
これもまた、いつか誰かをあたためることを、誰かのためを想う歌。
そこに、「あなた」として聞いている側のことも織り込んでくれていたとしたら、こんなにも嬉しいことはない。
縦の糸はあなた、横の糸は私。
sense of ritaの対談でも、このライブのMCでも、「(apは)お客さんが誰かのためを想っているのが伝わる」って言っていたね。
POPSAURUS2001があの曲で終わることが彼らが背負い与える側であることを示していたとすれば、
ここで「あなた」として聞く側を仲間に入れてくれたことは、apをはじめとするそれからの10余年でたくさんのお客さんと彼らが育んだ信頼の賜物だと思う。
■カルアミルク
イントロで分かってキャーって言いそうになった(言わなくてえらい)
興奮して脇汗がすごかった(本当に言わなくていい)
演奏はBank Bandカバー版、歌は原曲寄りな感じ。
でも2番Aメロの「女の子って~」なんかはBank Bandのカバー版(沿志奏逢版)そのまんまって感じで、あのCD音源が大好きな身にはたまらない。
さくらいさんの歌う情けない男って本当にいいんだわぁ〜〜〜!!!!と噛み締めつつ、どうして今ここでこの曲なんだろう?というはてなも。
答えはきっと最後。
「石巻で会おうよ!今すぐおいでよ!」
くすぐったくて、でもたまらなく嬉しい!!
私は石巻のなんだろう!!でも嬉しい!!!!
足ばたばたしながら歌うさくらいさんのかわいらしい様子を見ていると愛の無邪気さを歌った歌という気もしてくるけれど、実は愛の不確かさを歌った曲でもあると思う。
1曲挟んで後のLoveはじめましたに通じるピースとしても捉えられるんじゃないかな。
■Worlds end
導入のストリングスの低音の感じとステージ上に散らばった雫型の照明(ちょっとハートに見えなくもない)によって「Loveはじめましただ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」って思ったら違った……。
私たちもびっくりしてるけどたぶんWorlds end本人がいちばんこのアレンジびっくりしてると思う……。
サビでいつもみたいに照明が真っ赤に。
配信ではオレンジになっていたけれど、配信は全体的にかなり色フィルタがかかっている気がする。
この曲で座って歌ってるさくらいさんを見れる日がくるとは……。
しかし座っているさくらいさんの足は今にも駆け回りそうに忙しない……。
ザ・バンドの曲でバンド楽器が抜けた分、ピアノとストリングスでまた別の壮大感を演出していた感じ。
座っているけれど情熱的だった。
UNITEが決まった時に歌いそうな曲だなとぼんやり思っていた。
「何に縛られるでもなく僕らは何処へでも行ける」、まだ言い切るには早いかもしれないけれど、先の光として歌い示してほしいと思ったりしていた。
だから、アレンジこそ意外だったけれど、曲自体はすとんと胸落ちするものだった。
■Loveはじめました
スタッフさんがアコギ持ってきた&導入の低音の感じ(表現がワンパターン)で「今度こそLoveはじめましただ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」って思ったらそうだったのでやったーーーー!!!!って思った瞬間イントロの照明で目やられた!!!!!!!何!?!!!!!?!
とにかく照明がやばい。転がる、詩。の魔界のロードムービーに続いて魔界のLoveはじめましただった……。
イントロは全体が暗めの紫の照明の中、白の照明が客席に向かってビカビカ光りまくる。この白の照明が完全に自分の方向いててダイレクトに目に入る。何これ!!!!!!
と思ってたら今度は紫のビカビカ始まるし、サビは白のスポットライトがステージ上に垂直にビカビカ振り下ろされて(そんくらい暴力的)ポリゴンショックみたいになってた。
ライブ冒頭で声出してた赤ちゃん大丈夫かこれ!?!!?
2番サビで「、ダン!、ダン!」って鳴る打ち込み?がかっこいい!!楽しい!!
こんなにキマリまくった演出&アレンジのこの曲を着席で静かに聴かなきゃいけないの結構な拷問感があるよ……(笑)
「この街の中で押し合いへし合い僕らは歩いてく
多少の摩擦があっても擦れずに心を磨いて行くなんて出来るかなぁ」
視覚を刺す照明と一緒にぶっ刺さる。
とんでもない歌詞。今ほどこの言葉が耳に痛いこともない。
アウトロの客席向いた白ビカビカでやっと「なんでこんなに強い光にしてんだろ……これじゃカメラのフラッシュ……ん?カメラのフラッシュ!!そういうことか!!!!」と気づく(遅)
RADWIMPSのパパラッチで同様の演出を見てたのでもっと早く気づけてもよかった……。
メッシのインタビュー!!!!!!!!!!!!(時事をねじ込まないと気がすまない♡)
愛の不確かさや暴力性を担った曲だろうか。
あるいはメディア、情報に踊らされる人々の揶揄か。
MCでも触れていた分断という単語を最も想起させられた1曲。
紛れもなく今この情勢を生きる私たちの腕を逆に引っ張り針を刺してきた。
この後どの曲で浄化を描くんだろう。
■Drawing
「一瞬フラッシュバックしたんだ(※前曲のカメラフラッシュと掛けてる)」
頭の中で今超大声で「そ う は な ら ん や ろ」って言った……(笑)
いや、さすがにそこを掛けてないよね?(笑)
もう1曲くらい挟んで浄化いくかと思った、おかげさまで前後の落差がすごい!!!!!!!!
申し訳ないけどサイレントに笑いが止まらなかった(笑)
間奏では椅子に座ったまま左右にゆらゆらと揺れていた。
歌ってる人なのに聴いてる人みたい。客席のお客さんとシンクロしてた。
誰かを何かを想って生み出すことを肯定する曲として鳴らされたのだと思う。あるいは、「生み出されて今目の前にあるものには、実はこんなふうにあたたかな想いが込められているかもしれない」と教えてくれるような。
それはReborn-Art Festivalそのものや、彼が生み出した歌、彼が今ここで歌を歌っているということにも当てはめられるのだと思う。
先取りしてここで言ってしまうけれど、さくらいさんは、コロナ禍については語れど、最後まで10年前の出来事についてのメッセージを言葉にしなかった。
けれど、全部音楽の中にある。
2016年の雲雀野でのap bank fesでも、2019年の転がる、詩。でもそうだった。
いつだって。
ずっと音楽の伝える力を信頼している。それを示し続けてきた。
だからこそ、この「Drawing」という生み出すことを歌った曲に込められた想いの強さが、確かに伝わってくる。
最後は左手を胸に当て、右手も胸に当て、噛み締めるように終わり。
心を込めて、というメッセージが零れた仕草だったんだと思う。
■Message
歌詞に対してずっと「1人で書いたらそうはならないだろう」、だとか、「なんでそんなこと言うの」だとか感じていて、ap'18で初めて聴いたときは苦手にすら近い曲だった。
だけど、その後の別カドのインタビューと今回の「歌詞でもめて喧嘩しそうになった」のMCもあって、逆にフラットに聴くことができた気がする。
■はるまついぶき
2週前のウカスカジーのライブでの「春の歌」前のMCで「今みんな雪が覆いかぶさって雪解けを待ってる状態だよね、」という言葉を聞いた時に、はるまついぶきを思い出していた。
そのはるまついぶき。
まさに雪解けを待つその曲。
「呆れるほど未来の話をしよう、このまま」
この歌詞を歌う声の力強さと明るさになによりも胸を掴まれた。
■Forgive
今にも椅子から立ち上がって動き出しそう、動き出したそうなのに、座ったまま歌う。
そんな彼の代わりに駆け回る照明!
思わず動きたくなるのがわかるくらいに生き生きとした曲。手拍子したかった!
ほとんどの曲がモニター利用なしだった中、この曲では森本さん制作による映像が流れる。
映像に繰り返し出てくるにじゅうまる◎はどんな意味を持つんだろう。
■花の匂い
見守るようなあたたかい電球たちの中で。
「誰の命もまた誰かを輝かすための光」、かもしれない。
歌う彼の声もあたたかくて、まるで歌うというより語りかけるような歌い方すら交えていて、きっと表情も柔らかいものだったのだと思う。
原曲では劇的な演奏になる「どんな悲劇に〜」のパートは、静かなピアノ演奏を追加して、インターバルをとってから歌い始める。
「10年」という時間を表現しているように思えた。
「本当のさよなら」。
最後は「ありがとう、さよなら」じゃなくて「会いに来てくれる」を繰り返す。
言葉での説明がなくても、端々から想いが伝わってくる(気がした)。
それが本当にあたたかくてやさしいもので……大事に大事にしたいって切に思う。
■かぞえうた
「僕らは思っていた以上に~そう信じて」の声の強さが心に焼き付いた。
同じ「強い」でも、Loveはじめましたのような暴力的な強さではなく、優しい強さだと思った。
2階だから顔なんて見えない、でも「いつか一緒に~」は声が笑ってて、今笑顔なんだって顔が見えなくたって伝わってきた。
「いつか一緒に歌いたいな」の「いつか」「一緒に」が本当に本当に素敵だと思った。
それが今だったならいいと心から思うよ。
Loveはじめましたでは明滅していた垂直な照明が、このうたではまっすぐたしかに射していた。
数曲前にはあるかないかわからないと歌われていた愛が、今ここにたしかにあるよと示されているみたいだった。
それが嬉しくて、嬉しさが目から溢れてしまったよ。
■to U
そして最後はこの曲。
「A sense of Rita」での言葉も思い出しながら。
この歌をまた石巻の青空の下で聴ける日がきたら嬉しいな。
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「誰かのために小さな火をくべるような 愛する喜びに満ち溢れた歌」
「悲しみをまた優しさに変えながら生きてく」
「縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布はいつか誰かをあたためうるかもしれない」
「石巻で会おうよ 今すぐおいでよ」
「僕らはきっと試されてる どれくらいの強さで明日を信じていけるのかを… 多分 そうだよ」
「多少の摩擦があっても擦れずに心を磨いて行くなんて出来るかなぁ」
「デタラメと嘘の奥に本当の答えが眠っている」
「だけどもう一度 だからこそもう一度 夢見る時代は去ったとしても」
「あきれるくらい未来の話をしよう」
「明日のためのメロディ奏でよう」
「きっとまた会いに来てくれる」
「笑えるかい、きっと笑えるよ / いつか一緒に歌いたいな笑顔の歌」
「今を好きにもっと好きになれるから慌てなくてもいいよ」
震災から10年の今、そしてコロナ禍の今、その両方を歌ったライブだったと思った。
曲が終わる度毎回シルエットがちっちゃくなるくらい深くお辞儀するその姿に、込められた想いの強さを感じながら。
この年のReborn-Art Festivalのテーマは「利他と流動性」だった。
「利己」と比べると、「利他」という言葉を捉えるのはなんて難しいんだろう。
世の中には「ありがた迷惑」や「おせっかい」、「偽善」という言葉もあって、「誰かのため」を思うことが必ずしも「利他」にならない場合や、「利他」ではないと断じられる場合がある。
突きつめると、誰かのためであっても、自分のためであっても、「何かをしたい」と思ったその気持ちを行動に移すことは「利己」と呼ぶべきじゃないか。
そう考えてしまうと身動きがとれなくなる。
「誰かのため」を建前にして自分の罪悪感を減らそうとしているんじゃないか?不純じゃないか?と自問してしまう。
実際に自分にもいくつも覚えがある。
特に2016年までの自分の東北への向き合い方がこれだった。
だからこそ、それでもなお「誰かのため」を想って行動したり、「誰かのため」の想いを表現しようとする人が眩しくて、本当にかけがえないと思った。
すごいことだよ。本当に。
生きて何かをしようとすることが畢竟すべて「利己」ならば、「利己」は避けられない。
「生きる」ことにひっついた影みたいなものなのかもしれない。いい悪いでも諦めでもなく、事実としてそこにあるものとして受け入れるしかないんじゃないか。
そして、それによって「利他」を諦める必要もないんじゃないか。
「利己」から生まれる「利他」だってきっとあるんだと信じたい。いや、信じられると思った。このライブを見て。
2021年、2022年と「利他と流動性」を掲げたReborn-Art Festivalは続く。
彼らが心を寄せて歌うこと、この地で芸術祭が行われること、この地を想って作品が生み出されること、そこに足を運んで見ること、それらの中にひとつでも多く「誰か」にとっての「利他」が、喜びがありますように。
心から祈っています。