あの日 今日はあの日以来初めて家族で「あの日何をしていたか」を話した。7年も経ってやっと、その当時は帰ってくるのに精一杯でお互いに話す余地もなかったことに気づいた。あの日は春休み目前の補講期間で、部活や追試、補習のある生徒だけが学校にいた。私は部活で使う書類を顧問に提出するために学校に来ていたんだった気がする。……その前に部活の話し合いをしていた?覚えていない。確かうちの学校は補講期間は活動終了の14:45と完全下校の15:00に鐘が鳴る。鐘が鳴る中職員室の前に顧問を呼んで、書類を手渡した。書類に顧問の指が触れた瞬間が14:46だった。受け取った顧問の指が揺れて見えた。立ちくらみかと思ったのは数秒で、すぐに地面が揺れていることに気づいた。教師たちははじめ廊下に出ている生徒にしゃがむよう指示をした。あまりの揺れに泣き出す生徒が出てきて、揺れの大きさに気づき向かいの相談室の机の下に避難させた。相談室の扉は揺れが収まるまでずっと開いていて、机の下に潜り込んでいても廊下を慌ただしく駆け回る教師たちの姿が見えていた。教師たちは「大人」だった。誰も取り乱さず、各階の状況や生徒の保護を第一に考えて動いていた。その姿が今も胸に焼きついている。揺れが収まると各学年ごとにひとつふたつの教室に集まり待機するように求められた。後から教室に来た生徒達の中には泣いている人ばかりの一群もあった。7階の音楽室での部活中だったらしく、階数の高さもあり揺れが大きかったのだという。ある生徒は、棟と棟を結ぶ連絡階段にいたらみるみる繋ぎ目にヒビが入り壁面が崩れたといっていた。補習か追試を受けていた一群には、状況を面白がって大声で笑っている生徒もいた。集められてすぐ配られたカンパンと水に遠足気分のようだった。そんな生徒を見てお気楽さに苛立つ自分もいた。子供だったと思う。都内の路線はパンクしていたので9割方の生徒が学校に泊まることとなった。夜までの間何をして過ごしていたかは忘れたが、20:00頃の校内放送を覚えている。「おいし〜いおにぎりと味噌汁を配ります!」今は校長先生、当時は教頭先生、その前は私たちの理科の先生だったT先生のおちゃめな声に教室が湧いた。教師たちが男女問わずみなで食堂の残りで作ってくれたというおにぎりと味噌汁。本当に美味しかった。クラスごとに別れて、非常用で用意してあった保温ビニール?アルミ?でできた袋の中に入って教室の床で寝ることになった。消灯してしばらくして教師がいなくなって、誰かがケータイを取り出した。地元の路線が使えるようになったか確認しようとしていたらしく、隣の子とケータイを覗き込みながら小声で話していた。途中でケータイを取り出した子がえっ、と声をあげた。暗闇の中そこだけぼんやり照らされた顔、こわばった声を今も覚えている。「海岸に打ち上げられてるって……」「え?何が?」そこからどうやって会話が終わったか覚えてない。気づくとはっと目が覚めた。まだ1時間くらいしか経っていなかった。袋から這い出して廊下に出て、同じように寝れなかったらしい友人と話した。何を喋ったかは覚えていない。何話したんだろ。そのあともう1度寝ようとしたけれど、さっき聞いたニュースが耳にこびりついて寝られる気がしなかった。目をつぶると想像してしまってだめだった。もう1度抜け出して、自分の鞄からいつも音楽を聴くために持ってきていたPSPを出してきた。ばれないように袋に頭まで入って、HOMEを聴いた。「もっと」を聴いた。声が、音が、耳から身体全部に染み込んでいくようだった。「Mr.Childrenがいてくれてよかった」と思ってなんでか涙が止まらなくなって、繰り返し繰り返しリピートして聴いた。気づいたら泣きながら寝ていた。朝になって昼になって、電車が動くようになった人から帰っていった。私も昼頃に帰ったのだったと思う。電車が動くようになるまでは、教室にあるパソコンでネットを見て時間を過ごした。クラスメイトのアカウントを通して初めてTwitterというものを見た。信じられないようなニュース、誰かの気遣う声や災害を生き抜くノウハウ、注意喚起、助けを求める拡散希望ツイート、デマ。安全なこの教室からは想像出来ないくらい外の世界が混沌としていることを思った。─────────────────あの日以降、一部発電所の停止により都内では節電と輪番停電が行われ、テレビでは連日ACのCMが流れていた。アニメ・エヴァンゲリオンになぞらえて「ヤシマ作戦」(節電して停電地域の負担にならないようにしよう、電力不足を乗り切ろう)に参加してほしいと市民レベルで求めるチェーンメールが回ってきた。ガセのチェーンメールももちろんあった。よかれと思って回したメールがガセだった時もあり後悔した。反省した。ニュース番組も不要なコンセントは抜きましょう、トイレの便座の保温はできる限り切りましょうなどと呼びかけ、一方でこの状況に便乗したガセ情報や詐欺が横行しています、電力会社やガス会社の公式HPを確認してくださいと注意喚起していた。この頃のニュースで初めて、関東と関西で電力の周波数が異なり変換が必要になることを知った。普通なら周波数が同じ関東-東北で電力を融通しているが、双方打撃を受けてしまったことで電力不足に陥ってしまった。新聞の1面右の柱にはいつも行方不明者数等が表記されていて、連日増えていった。あれはいつまで書いてあっただろう。あの頃地元の駅に行くと、いつもは全部点いている構内の蛍光灯が1つおきについていた。課外授業で西武池袋線に乗ると日中は電車内の電気が全くついていなかった。スーパーからパチンコ屋に至るまで、最低限の看板しか電気が点いていなかった。電灯の減ったいつもより暗い街を歩いて初めて「こんなに明るかったんだ」と知った。要らないものがこんなにあったんだ、とも。電灯の数が戻ったのはいつだったろう。1、2年後だったと思う。前の家(都内)に住んでいた頃だったから、輪番停電にもあたった。蝋燭だか懐中電灯の灯りの中、母が夕食を作ってくれた。我が家はガスコンロも石油ストーブもあったから困らなかったけれど、オール電化の家はどうなってたんだろう。夏が近づくとNHKでは毎日のように使用電力量の注意と節電喚起が出ていた記憶がある。実際使用量が90%近くになっている日もあった。学校でもエアコンの温度は何度以上、と決められていた。この年だけ、春休みに家族で山口の祖父母の家へ帰省した。そこでの生活が衝撃だった。街の電気は消えていない。節電の呼びかけもない。あっちで毎日出ている余震のテロップはほぼ出ない。企業CMが普通に流れている。距離が開くだけでこんなにも違うのだと驚いた。そしてきっと、自分が普段見聞きしているものも直接被害を受けた地域とは全く違うのだろうと思わずにいられなかった。こっちは交通とか電気使用量のことばかり意識しているけれど、そんなもの何かや誰かやどこかをなくすことに比べればなんてものでもない。絶対に自分にはそういった人たちの気持ちは理解出来ないし理解した気になっちゃいけない。そう思うようになってから、「震災」にまつわる何かに涙を流したり「感動」のような心の動きをしてしまったりすることに物凄く罪悪感と自己嫌悪を抱くようになった。自分がわかった気になってる、共感した気になってるように思えて嫌で仕方がなかった。話は変わるけれど、他の震災とあの震災との大きな違いのひとつに、電力のことがあると思う。他の震災における「自粛」とあの震災の「自粛」の意味は違うと思う。あの発電所で作った電気を使っていたのは、現地の方々じゃなくて関東の人間だった。それなのに住む場所を奪われ風評被害を受けたのはあちらの方々だ。他の震災での「自粛」を求める非難には、「不謹慎だ」を繰り返すだけで合理性がないものもあるように思う。でも、あの震災で「自粛」を求める非難には、「電力消費量」の問題という合理性があるものも多かったような気がする。これは自分の加害者意識によるものかもしれないけれど。あの頃電気を使うことにものすごく罪悪感があった。ライブに行くことにも罪悪感があった。当時電力不足によって病院での患者さんの生命維持装置に影響が……というようなニュースを見た記憶があって、ライブで大量に消費される電力と生命維持活動に使われる電力とを秤にかけていた。自分が行かなかったところで消費電力が変わるわけでもないんだけど。正直今でもこれについては自分の中で結論が出ていない。そんなわけで、自分の中にはずっと「被災地」に対して戒めと罪悪感のようなものがあった。「共感」しちゃいけない。まつわる何かに「感動」しちゃいけない。ずっとそう思ってきた。2016年までは。──────────────────2016年に、初めて「被災地」と呼ばれる場所を訪れた。RAF×ap bank fes 2016の開催地、石巻。初めて訪れた石巻は本当に本当に美しい場所だった。どこまでも青い空も、燃えるような夕焼けも、流れ星がきらめく満点の星空も、深く澄み渡る海も、夜でも煙をあげる怪しく光る工場地帯も、そこかしこにペイントが施されたシャッターや壁、マンホールが並ぶ街並みも、何もかもが素敵だった。一目で大好きな街になった。この美しい海が5年前に牙を剥いたその海とおなじであること、この街のそこかしこに当時どこまで浸水したか示す目盛りがついていること、この工場たちが当時津波により火災を起こしたこと、会場まで行くこの道にはかつて家が立ち並んでいたこと、どれも足を運んでいなかったらきっと知らないままだった。ほら、やっぱりそうだった。私は知らなかった。私にはわかるはずがなかった。「共感」なんかし得ない。知った気になんてなってはいけない。改めてそう思ったりもした。前夜祭を終えて、初日。オープニングを迎え、Salyuと櫻井さんが歌った1曲目は「to U」だった。きっとこの場所で・この趣旨を掲げて歌うにふさわしい、久しぶりのapで鳴らされるのにふさわしい曲。みんな泣いていた。きっとある人は現地の方で、ステージの彼らが想いや歌を届けたいと思っていたまさにその人なのだろう。ある人は昔のapに行っていて、この曲が久しぶりに鳴らされるという意味を受けとめるに値する人なのだろう。自分はそのどちらでもない。初めてapに来た、被災地の外の人間。それなのに、その歌詞とストリングスブースに反射して映ったお客さんたちの泣き顔が飛び込んできた時ぼろぼろと泣いてしまった。泣きやめ、なんで泣いてんだ、お前はなんでもないだろ、自分に言い聞かせたけれど無駄だった。何の涙なんだろう、でも何かが溢れてとまらなかった。その日の夜、宿に戻ってかわりばんこにお風呂に入る前。相部屋になったその人と珍しく少しだけその日のライブの話をした。何度もapに行ったことのあるその人に、1曲目のことを話した。「自分は絶対に被災地の方の気持ちをわかるはずがないのに、わかる気になっちゃいけないのに、まるで自分も救われたような気持ちになって泣いてしまった。共感できた気になりたくないのに」と。話を聞いてくれたその人は、少し考えたあとこう言った。「たしかに被災された方の気持ちはわからないと思うけれど、それはステージの彼らの『救いたい』という気持ちへの共感だったんじゃないかな。彼らが歌ってくれたことで『救いたい』っていう気持ちが救われたんじゃないかな。」まるで呪いが解けたような気持ちだった。ずっと罪悪感があった。理解出来ないから何もできないと決めつけていた。でも、理解できないとしても何かしたかった。たしかに私は、心のどこかで力になりたいと思っていた。だから今年、石巻に来た。だから私は、その「救いたい、癒したい」という気持ちに触れて救われたんだ。なんにもできない私がここに来たということ、なんにもできないままに持っていた「救いたい」という気持ちを肯定してもらえたから。「眠れずにいるあなたに言葉などただ虚しく」、理解出来ない自分がかけられる言葉やできることなんてないと決めつけていた私にとって、この上なく共感できる歌詞だった。そして、それでもただ「いつの日か過去に変わ」ることを祈りたい気持ちも。理解できなくても、想ってもいいんじゃないか。わからなくても、力になれることはあるんじゃないか。彼らが歌ってくれたように、寄り添いたいと思うことに意味はあるんじゃないか。そう思えた。5年目にして気持ちが変わるだなんて誰が思う?私も思ってもなかった。あの一言がなければきっと今も私は自分で自分に鎖をかけたままだったと思う。この文章をその人が読むことはないけれど。あのときは、本当にどうもありがとう。─────────────────2017年にはRAFでまた石巻へ、Thanksgiving25で熊本へ。同じ年に2箇所の「被災地」に行って衝撃を受けた。かたや6年前、かたや1年前。それなのに、同じ「地震」の被災地といってもわけが違った。もちろん熊本の被害なんて大したことない!と言いたいわけでは全くない。本当に。ただ津波というものがどれだけ恐ろしいものかを思い知ったきがした。日和山から見た景色が忘れられない。2年目の石巻で見た海も本当に美しかった。白い牡鹿の像がある「貝殻の入江」で戯れた海は、牡蠣や帆立、浜から隣接した森を育てる紛れもない「恵みの海」だった。でも同じ海が6年前には奪った。その証拠に、ダンパリウム(RAFの作品、海の漂着物や山の廃棄物を木枠でできたドームに吊るしている。具体物としては鹿の死体や漂着した家電等がある)には津波の衝撃で大きく凹んだ浮きが吊るされていた。海辺には白く巨大なコンクリート壁が建設されていた。防波堤のせいで海が見えない、と反射的に思ってしまったけれど、海が見えない方がいいんだ、そりゃ。RAFの展示で特に印象的だったのは、キュンチョメ氏の作品だった。津波によって強制的に何かを失わさせられた人々が、今消したい(消えてほしい)ものがあるとすればなんなのか。それをインタビューし、スマホのパノラマ撮影と青空を映すミラーによって擬似的に消してしまおう、という映像作品。コーヒーとタバコを飲んだ後の口の臭い、農薬、ガイガーカウンター。これらはまだ想像の及ぶ範疇だった。衝撃的だったのは、映像作品化せず、プリントとして設置していたインタビューたちだった。震災時県外にいて、震災当時の経験を共有できない自分を半端だと思う人。震災で嫌いだった祖母を亡くし、悲しく思わない自分に自己嫌悪する人。震災によって別の地区のランクの低い学校に通うことになり憂鬱な日々を送る人。きっとこれらは「メディア」には取り上げられない声だろう。そもそも取り上げる「べき」ものがなんなのかもわからなくなる。こういった個人的な思いを知る「べき」とも言い難い。興味本位でプライバシーを土足で踏み荒らしたいわけではない。でも、「震災」はただの点じゃなくて、その前にもその後にも続く一つの線の上にあるものなんだということを思わされた。ってまたこれもわかった気になってるような文章でやだけれど。─────────────────そんなわけで、まだまだ、知らないことがたくさんある。きっと本当の意味では知りえないこと、知ろうとするのもおこがましいようなこともたくさんある。それでも、寄り添いたいと思った。何かできるならしたいと思った。あのtoUを聴いて自分の気持ちを知れたから。だから、私はこれからも石巻に足を運びたい。他のまだ足を運んでいない東北の地を訪れたい。知ろうとしたい。考え続けたい。きっとそれに意味はあると信じて。これが、7年目を迎えた今、自分が思うこと。2011年3月11日から丸7年。今日この日に、今現在の想いとしてここに記したいと思う。そして改めて祈ります。悲しい昨日が、涙の向こうで、いつか、なるべく近い未来に、微笑みに変わりますように。どうか。2018年3月11日 記 PR