「君の名は。」覚書のようなもの 映画「君の名は。」を見てきました。まだまだ自分の中で消化し切れていない、誰か見た人とお話したい!という気持ちでいっぱいなのですが、そのためにはまずは少しでも自分が思った感じた「君の名は。」をまとめなくては。と思ったので自分が思ったこと、疑問に思ったこと等をまとめてみました。覚書のような簡単なものですがよければお付き合いください。ネタバレバリバリあります!映画を観ていることが前提になっているような文章です!その点ご了承くださいませ。*メタファーあれこれ「扉編」何度も繰り返し出てくるのが、ズームアップで扉が開閉するショット。これはそれを通ることを通して登場人物が「変わる」「踏み出す」こと、新たな世界が開けることを示唆している、などと様々にとることが出来ると思うのですが、この映画の主題歌「前前前世」になぞらえれば「生まれ変わり」を示しているという言い方も出来るのではないかなと思いました。瀧は三葉の身体で起きるとまず部屋の扉を通ってから「三葉」としての生をはじめる。三葉は瀧の身体で電車の扉を通り東京の街に出て「瀧」としての生をはじめる。入れ替わり及び扉を通ることは新たな生を重ねること=生(世)を重ね前前前世を積み上げていくことと同意だと示されているのではないでしょうか。あるいは三葉が瀧に会いに行ったシーンでは扉がふたりを隔てた、ということから逆に扉が開くショットはふたりの隔たりが取り払われた、ふたりが隔たりを越えたことを示しているととることもできるかもしれない。いずれにせよあの扉のショットになにがしかの意味が込められていることは確かだと思うのでもう1度着目しながら見たいっす……(備忘録)*メタファーあれこれ2「伝承編」ムスビの話が時を越えて結びついたふたりと通じていることは物語中でも語られていた通りですが、もうひとつ、具体的にセリフなどの形で回収されなかった「繭五郎の大火」についてのお話もふたりの関係を示すものなのではないでしょーか。「繭五郎の大火」そのものというよりもそれにまつわるおばあちゃんのお話ですが。物語の序盤でおばあちゃんは「山火事で記録が無くなってしまい今では祭祀の意味がわからない、しかし意味がわからなくとも守り・残して大事にすることに意味がある」という話をします。これは「伝統を大切にしなくてはならない」という一般論として話されおり、繭五郎の話に辟易する四葉の態度には「大事にした先に何があるのか?」という疑問すら透けて見えます。しかしそこで語られなかった「大事にした先に何があるのか?」こそがミソであり、その後に展開されるふたりの物語が、その答えになっているのだと思うのです。紆余曲折を経て宮水神社の御神体へ繋がる道で三葉と瀧はやっと出会うことが出来、三葉や町の人々の命を守ることも叶います。しかしふたりはお互いに名前、それどころか誰と何と会いたかったのか、どうして会いたかったのかすら忘れてしまう。そんなふたりが再び巡り会うことが出来たのは、記憶を無くしても心の奥に根付いたままの「会いたい」という気持ちを捨てなかったから。大事にとっておいたから。「記録(記憶)を失いその意味や理由がわからない、それでも大事にしなければならない」「大事にすることに何の意味がある?大事にした先に何がある?」語られなかったその答えこそが、この映画のラストシーンなのではないでしょうか。同じように入れ替わりを経験したはずのおばあちゃんが、それを少女時代の夢と切り捨てて無かったこととして人生を送っていることからは、ふたりが再会できなかった可能性も充分に示唆されているように思います。この連関は、切り捨てず大事にし続けることで成就するものがある、という物語の伏線としての役割だけでなく、何気なくさりげなく流れるシーンやセリフにも無駄なものなんてない、意味があるんだよ、ということすらも教えてくれているように思えたのでした。*メタファーあれこれ3「伝承編セカンド」(だんだん分ける意味がわからなくなってきたぞ)ひとつ前の「おばあちゃんのお話結構大事じゃね!?」話2回目!!今度の話は御神体の前の川を渡る時の「ここからはあの世、戻る時には一番大切なものを置いていかなきゃいけない」のセリフについて。もちろんこの言葉が発された時に「一番大切なもの」として置いてきたのは、お供えの口噛み酒。そしてこのあともう1回このセリフを瀧がなぞるように口にして御神体へと向かうのですが、この時瀧はお供えものを持っていない。では、代わりに置いてくることとなったのは何か?答えはわかりきっているのですが、それが、「瀧と三葉のお互いの名前」、「お互いの記憶」。時空の隔たりがあったにも関わらずそれまで覚えていることのできた名前が突然思い出せなくなったのは、紐を返しムスビが切れたことだけではなく、それらの記憶が「置いていくもの」になってしまったということにも所以していると思うのです。なにせ、その直前のカタワレ時のシーンでふたりはやっと出会うことができて、お互いをはっきりと「大切」「好きだ」「忘れたくない」と思うのだから。むしろ、「一番大切なもの」を置いていかなくてはならない場で失ったのがお互いの名前と記憶だった、ということが「お互いをどれだけ大切に想っていたか」「伝えられなかったけれど好きだと思っていたか」を逆説的に・非情にも示してもいるのだと思いました。これもまたひとつ前の節と同じく、物語中の伝承がふたりの想いの強さを裏付けた例のひとつなのだと思います。*新海作品の系譜における「君の名は。」(少し他作品のネタバレがあるのでご注意!)私はまだ「ほしのこえ」「秒速5センチメートル」しか新海作品を観られていないためこの2作品のみを踏まえた上での感想となってしまうのですが、「君の名は。」も含めたこれらの新海作品に通じるひとつのテーマが「時間や空間に隔てられたふたりの心の距離、つながり」なのではないかと思います。何光年先の星と地球に引き裂かれ、メールが届くのも8年後であればお互いの年齢すら離れていくミカコとノボルを描いた「ほしのこえ」。転校によって想いを寄せていた明里との距離を隔てられ、そして手紙やメールを送って心の距離を近づけることもできず、ただ心だけが何年経っても昔の明里への想いにとらわれたまま大人になる貴樹が描かれた「秒速5センチメートル」。そして、3年前の飛騨の町に棲む少女・三葉と3年後東京で暮らしていた少年・瀧が時と空間に隔てられ引き裂かれた/時と空間を越えて出会った「君の名は。」。どれもふたりの間にある時間と空間を心が越えられるのか、というテーマが根底にある作品だったように思うのです。そしてその共通点があるこそ「君の名は。」はこれら二つの作品とは一線を画しているのだとも。端的に言ってしまえば、「君の名は。」でやっと「ふたり」は「再び出会う」という結末を迎えることができたのではないか。「ほしのこえ」ではお互いの心がお互いの側にあることを想いつつ物語中で再会することは叶わず、「秒速5センチメートル」では明里は別の男性と婚約しているし、貴樹が踏切で振り返るともういない。特に「秒速5センチメートル」のこの踏切でのすれ違いね!!!!!!!!あまりに記憶に鮮明だったから「君の名は。」のラストでのすれ違い、これまた振り返らないんじゃないの!!?!!?!(´;ω;`)(´;ω;`)って心臓バクバクだった…………瀧が名前呼んでくれてよかった…………三葉が振り返ってくれてほんとよかった………………やっと出会えた………………………………(´;ω;`)だからなんといいましょうか、この「君の名は。」でのラストシーンは、ある意味三葉と瀧の「前前前世」越しの出会いどころか「ほしのこえ」や「秒速5センチメートル」といった新海作品を「前前前世」として踏まえた上でのやっとの出会いにすら感じられました。カタルシス、「やっと叶った」感がすごい。だから安心と喜びが目から溢れてなりませんでした…………。でもよく考えると心配するまでもないことなんですよね。「秒速」の貴樹がふたりが離れて以後自分から会いに行かなかったのに対して、瀧は少ない手がかりの中でもどうしても会いたい、会おう、と自分から糸守に向かい(空間を越え)口噛み酒を飲み(時間を越え)三葉に会いに行った。電車を降りて探し回りもした。そうやって気持ちを行動に移せたか否かがふたつの物語の結末を分けたのかも知れません。こういった対比から考えると瀧と三葉の再会はご都合主義やハッピーエンド至上主義によるものだ、と簡単に考えるべきではないように思えます。以前新海監督が「想うだけで行動しなかったから結ばれなかった」という男を冷静に描いていることからすると非常に合理的な結末ともいえるのではないでしょうか。(とか言うことで「安易な結末!」と切り捨てる意見に対してちょっぴり反論した気になったりもしています笑)「秒速」は「現実の中で夢想する(「行動せずに結ばれる」というある種ファンタジックな思想にとらわれた)少年」、「君の名は。」は「入れ替わりというファンタジックな現象の中で、避けられない自然や簡単に動かすことの出来ない人の心という現実的なものにぶつかり乗り越えようとする少年少女」を描いているという点でも合わせ鏡のような二作品のような気がします。あとラストシーンについてもうひとつ思ったことを。最後すれ違う時どうして瀧から話しかけた(三葉から話しかけなかった)のだろう、ということを映画が終わってからぼんやり考えていたのですが、もしかして初めて(3年前)の時は三葉の側から会いに行ったからなのかな、と思ったり。ラストシーンで瀧に話し掛けられて振り返った三葉の安心したような・待ちわびていたような顔には、3年前電車の中で三葉から瀧に話し掛け「誰?」と言われた時のショックが無意識の中に残っていたこと、だから「違うかもしれない」と気持ちがブレーキをかけて自分から声を掛けられなくなってしまっていたこと、それらがやっと(前前前世越しに!)解消されたこと、が滲み出ていたのではないかな、などと思いました。あくまで想像ではありますが!*「震災以後」の作品としての「君の名は。」「震災以後」の現在の日本を生きている以上、「自然災害」を描いた作品を観て震災を思い起こす人は少なからぬ数いるであろう、そして表現者もまた描く際にそれを思わずにいられないだろう、と思います。フィクション(作品)の中で描かれる自然災害を「震災」のメタファーとして捉える視点は、今や現代日本に定着しているとも言えます。そしておそらくこの映画のキーを担う彗星、そしてそれにまつわるできごとにも、その視点を適用して見ることができるのではないでしょうか。作中において、お祭りの日に糸守に彗星が落ちることを知った瀧は、町の人たちをどうにかして被害範囲の外である高校に避難させようと奔走します。ここでの目的が「避難させる」ことなのが、ひとつポイントのように思ったんです。いくら避難が成功しようと町が壊滅してしまうことは変わらない以上、本当の本当に望ましいのは「彗星が落ちないこと」「軌道をずらすこと」なんですよね。これが新海監督の作品「ほしのこえ」のようなSF映画だったらきっと彗星を破壊しに行ってますし、同じく時をかける少女・少年を描いた細田監督の別作品「サマーウォーズ」ならば、インターネット上での人工知能との対決の果てに墜落位置を変えてしまうわけです。でも、今作のヒーロー・ヒロインにはそのような手段を選ぶことは出来なかった。あまりにも大きな自然を前に力が及ぶはずもない。「彗星が落ちる」という変わらない事実を受け入れた上で、人的被害を最小限に抑えるという方策をとることしか出来ないんです。そしてその避難の呼びかけと人々の反応もぞっとするほどにリアルに満ちている。実際に変電所で爆発を起こし「山火事の危険があるので避難してください」との放送を入れれば人々は高校に向かってくれるはず、そんな瀧たちの見立ては儚く裏切られ、町の人々は祭りの場から動こうとしてくれない。これは現実世界でも頻繁に起こる「他の人たちが皆まだ避難していないから大丈夫なのだろう」というような集団心理や、もはや日常的に届くようになってしまった地震速報に慣れてしまった現実の人々の姿とだぶって見え、身につまされたような気持ちにならざるをえませんでした。極めつけは、分裂し今にも町に落ちようとしている彗星をあくまで美しい天体現象として賛辞の言葉とともに報じるニュースの言葉と、3年前三葉と出会う前の瀧の「まるで夢の景色のようにただひたすらに美しい眺めだった」、という言葉。これは本当に個人的な感想になってしまうんですが、今年の夏にapをきっかけに石巻に行った時に自分が抱いた気持ちを思い起こさずにいられなかった。言うまでもなく、今年RAF×ap bank fes 2016が開催された地・石巻の雲雀野埠頭は、アートを通して被災地が再び生まれ生きていくことを目標に、震災の被害を受けた場所として選ばれました。その場所は震災後瓦礫の一時処理場となっていたとともに、埠頭ということで海風が心地よい空の開けた土地でした。そして、その会場を囲み涼やかな風を運んできてくれる青く美しい海は、数年前に牙を剥き容赦なく町を飲み込んだその海と同じものでした。一方では町を壊滅させ、一方では「夢のように美しい光景」として人々を楽しませる。作中における彗星の持つ二面性は、まさに今年自分が石巻に足を運ぶ中で思い知った、自然が持っている二面性そのものでした。そして悲しいことに私たちはいとも簡単にその二面性を忘れてしまう。私も、もし石巻で、しかも明確に「被災地復興」を掲げられていたあの時に見ていなければ、同じ海に対してそのようなことを考えることすらなかったかもしれない。それくらいに私たちの記憶はすぐに風化してしまうし、当事者以外にとっては対岸の火事なのです。だからきっと瀧も三葉を救う前は「3年前に糸守に落ちた彗星による災害」のことを思い出せなかった。覚えていなかった。三葉を救ったあとに覚えていたのは、三葉自体に対する記憶が無くなってもその災害が瀧にとっての「自分事」となったから。なのではないかなぁと思います。(逆に糸守の彗星については覚えているままなのに三葉の名前・記憶がすっぽり抜けてしまっている、ということでまた前述した「一番大切なものとして置いていったのが三葉の名前や記憶」であることの裏付けにもなると思います)そしてそれら自然の二面性や自然の動かし難い大きさに説得力を与えているのが、時の流れと共に様相を変える自然の表情をつぶさに観察し、登場人物の気持ちすらも乗せて表現することの出来る風景画家・新海監督の技量なのだと感じました。瀧の言葉の通り、この映画で描かれる彗星は本当に美しい。だからこそ、その美しいものが成した破壊の恐ろしさと切なさと衝撃が胸に大きく残されたのでした。……と、ここまで「災害」「自然」の描き方について語ることを通して、自分がどうしてこの映画が入れ替わりという非現実的な要素を含んでいながらも非常に現実的なものとして感じられたのかをつらつら書いてきたつもりなのです、が、ここからはこの映画が「現実」を取り入れることを通して何をしようとしたのかのお話です。先ほど自然を前にしては人間1人ではどうでもできない、ということを書きましたが、それでも誰もが「救えたならよかったのに」と思わずにはいられないと思います。「未曾有の大災害や悲劇をもし知ることができたら、そしてそこから救うことができたら」。そういったifを描き願望を叶えてくれた作品だ、と言ってしまうと思考停止に陥ってしまうかもしれません。だから言い方を変えましょう。この映画は、「『もし次があったら今度こそ守りたい、救いたい』という気持ちを、私たちは行動を通して成就させることができるんだよ」、と言ってくれているように思えたんです。ご覧になった方にはお分かりの通り、瀧は過去を嘆くに留まるということはしなかった。形としては過去にタイムスリップしながら、「これからどうするか」「今から何ができるか」を考えてがむしゃらに走り抜けた。これらは現実世界というまだ続いていく世界を生きる私たちにも充分に通じているように思うのです。私たちは過去にあったことを糧としてこれからを生きていかなければならない、糧として生きていくことができる、のだから。というわけで、このように現実をなぞりながらも、現実とは別の結末や未来への希望を描き苦しみを昇華することができることこそがフィクション及びこの映画の醍醐味なのではないかなぁ。個人的にはそのように思っています。ファンタジックな設定や恋愛成就という王道的テーマ、美しい風景描写を用いて見る人を純粋に楽しませ感動させつつ、そのファンタジーを通して逆に現実世界の構造や心の動きをも炙り出してしまう。エンターテインメントと風刺(というとちょっと険しい印象になってしまいますが、「気づかせるもの」くらいのニュアンスで)の共存。この双方のベクトルに面白いくらいに振り切れているのがこの映画で、だからこそ私はこの映画にとても惹かれたんだ、と今書きながら思いました(笑)*最後に疑問とか雑な感想とかあれこれ・これ、私があほだからわかんないだけなのかもしれないけど未だに「なんで入れ替わったのが瀧だったのか?」がわからない……。単純に瀧が3年前に三葉から紐を受け取りムスビを得た人間だから、ってことになるんだろうけれどそうなるとどうやって「紐を持っていない『一番最初の瀧』」とのムスビができるのか、っていう永遠に始まりが見つからないアレに陥ってしまうわけで……。これ、あれと一緒だ……ドラえもんの大魔境で最初に未来から助けに来てくれたドラえもんたちは一体誰から助けてもらうことになるの?っていう……。だからSF設定ではよくある&原理を考えちゃいけないパラドクスなのかもしれない…………。(という独り言)・そうではなくもし瀧との入れ替わりが単純に三葉の「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!!」の言葉が叶ってのものだとしたら瀧は三葉にとっての「東京のイケメン男子」代表ということになるからそれはそれで面白い(笑)(でも入れ替わりはこの叫びの前から起こってるから関係ないのかな)そしてこの場合だと三葉が3年前の時間軸で死んでしまっていたから「来世」の願いが叶って3年後の瀧と入れ替われた、ということが確定的になるため、三葉が亡くなってしまっていないとふたりは入れ替わりを通して出会うことができなかった、瀧が3年後の世界で三葉の死を知って絶望することは避けられないことだった、ということにもなりとても切ないです…………。3年後の瀧が三葉にとっての「来世」だったから出会えた、そうでなければ出会えなかった……。……………………。・彗星を同時に見てたから、とかが理由だとしたらそれ何万人おんねんって話になるからその線はないよな・ところで3年前で同い年ということは三葉は同時間軸だと瀧より3個上ってことになるのかな。ラストの三葉社会人っぽかったし。・神様へのお供え物飲んでいいの??バチあたんない……??という純粋な心配・宮水家の入れ替わりの意味についての瀧の予想は実際あってるのか?あと地味〜に瀧のおうちもお母さんがいないっぽいのが気になります……そこが入れ替わりに関係しちゃったりするのか……しないよな……考えすぎです…………・ちゅ〜しないラブストーリーすげ〜プラトニック〜ひゅーひゅー!!・夢灯籠あれでフルだなんて信じないあと2倍聴いてたいうっうっとりあえずはこんな感じです!また何かあったら付け足すかもしれないし付け足さないかもしれない!無駄に長いよなんだこれ!!ひとまずはお読み下さりありがとうございました〜!!お話できる人はぜひお話しましょ〜。ではでは! 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Everything このキャベツを育てた人はどんな人なんだろう、どんなふうに育ててきたんだろう、どんな思いで送り出したんだろう。そう思いながらかぶりつきたいなぁ、なるべくは。そんなことに思いを馳せて涙を流すのが好きです。そんなふうに顔の見える音楽が好きです。大好きです。歌の上手い下手なんて本当はどうだっていいんだって思ってる。その人の心の温度が伝わる歌声や声色ならばいつだって心は共振するよ。そんな体験をしたことがあるんです。歌う言葉の意味じゃなくて、その響きの柔らかさだけに救われたことだって、あるんだ。きっと忘れない。言葉にならない思いをくるむ音があることも知ってるよ。なるべくそのままの形でパッケージしたいから、文字にはしないで大事に音楽に託すことだって、たくさんあるんだよね。その一音に心ふるわせられるのが好きです。奏でている表情を見るのだって。私にそう思わせてくれたバンドです、Mr.Childrenは。抱えきれないほどたくさんたくさん大切なものをくれた人たちです。ありがとう、本当に大好きです。大好きで大好きで、たまらないです。デビュー20周年おめでとう。デビュー20周年、ありがとう。心から感謝しています。これからも、どうか一緒にいてね。それでは、また会えますようにと祈って。2012/05/10/00:00