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Mr.Children Stadium Tour 2015 未完8(考察パート)

はてさてここからもはや想像とも妄想ともつかない考察パートになりますです!もうここまでだいぶ長かったからね、間に受けてちゃんと読んできちゃった人はだいぶ辛いと思うんですよね。大丈夫、最悪「ボーダーを着たさにやんはボーダーを着たままで愛すればいいじゃないですか、ボーダーを着てないさにやんはボーダーを着てないままで愛すればいいじゃないですか」っていうことだけ胸に刻んで帰って貰えれば私は本望です。ちなみにこれがやぶちゃんだとボーダーが白Tになります。

そんな話は  置  い  と  い  て。(あ、この話はもう二度とこの文章で触れないので忘れていいです)(桜井○寿くん(45)(東京都・仮名)はドライブスルーで商品受け取るの忘れてドライブスルー(物理)しないでね)

私が今ツアーに見たテーマは大きく3つ、でした。
1つが「五感の解放」、
もう1つが「光と影(闇)」、
そして最後に「REFLECTIONの解体/再構築」。
でね、これらがほんとにもうぐちゃぐちゃに絡まってて説明出来ないんですよ!!なんかもうとりあえずMr.Children何重にもすごすぎて困る!!んだけど勝手に見つけては感動しちゃったあれこれがあるのでもしよければ聞いてくれみきゃん!!!!!!
なんとなくこれら3つについて寄り道しつつお話した上で、今ツアーのセットリストについて考えたことを書いていこうかな、と思います!!!!うまくいく気がしねぇ!!!!!!!!!!



*五感の解放

福岡初日を終えてまず引っかかったのが、擬態とフェイクの2曲の選曲。というかフェイクです。ライブのフェイクといえばHOME・HOME野外のフェイク→anyという流れがあってのフェイクを思い出す人も多いんじゃないかな、と思うんですが、…………そうでもない?(不安)(わ、私はそう)…なのですが(笑)、これに限らずMr.Childrenの楽曲ってセットリストの並びや曲同士の呼応によって同じ曲でも全く別の面がフィーチャーされたり全く別の物語や文脈を構成することになる、ということが多々あると思うんです。ZeppツアーとREFLECTIONツアーがほぼ同じ曲を並べていたにも関わらず別の物語を描いていたように。
(ここで脱線しますが個人的にZeppツアーはMr.Childrenが今まさに追っている「夢」と「夢」を追っている姿を見せるというもの、REFLECTIONツアーはその名の通りアルバム「REFLECTION」に収められるであろう曲たちの原初的な姿の披露をリスナー・ファンとの「REFLECTION」(反射、コール&レスポンス、呼応など様々に言い換えられると思う)の中で行うというもの、でした)
(夢追い人は旅路の果てで一体何を手にするんだろう
夢を追う旅人
愛自由希望夢足元をご覧よきっと転がってるさ
あきらめかけたいくつかの夢希望憧れ幸せ
夢見てた未来はそれほど離れちゃいない
やさしい夢を引き継げるかな  僕らの夢は広がる
明け方非現実的な夢をバスタブに浮かべてみる  いつかは非現実的な夢も叶うと信じI Can Make It
夢から夢へと橋をかけて渡るそんなイメージを忘れずに  今日も夢に手を伸ばし追いかけるよ
夢を摘むんで帰る畦道)
(さらにZeppで「今までのMr.Children」として選ばれたイッツユー旅人名もなき詩の3曲はおそらくさくらいかずとしが最も自己の内面を掘り下げて詞を書くことを要求されていた/そうせざるを得なかった時代の曲。等身大の曲。だからこそここで歌われてる「夢」は彼ら自身の夢と捉えられるんじゃないかな、と思った)(もちろん異論ばっちこい!!)

で、話を戻してそんな印象の強いフェイクが今回何と呼応してるのかな、と思った時に出てきたのが擬態、なのでした。HOMEのフェイクとanyが「偽物」と「真実」という呼応を見せたのに対してこのフェイクと擬態の呼応はいわばエゴとエゴのシーソーゲーム(言いたいだけ)、「偽物」と「偽物」の惹かれ合い。そして

目じゃないとこ耳じゃないどこかを使って見聞きをしなければ見落としてしまう何かに擬態したものばかり

飛び込んでくる音(目に入る映像)
暫く遮断して(心澄まして)
何が見えますか?(誰の声が)
聴こえますか?(いつまでも)
抱きしめていれるかな?

とあるように、その「偽物」は五感に囚われ惑わされることによってもたらされる、逆に五感の解放によって得られる何かがある、と。
これを踏まえて見ると、もうこじつけと言われても返す言葉は無いという感じではあるんですが擬態のクジラはクジラ=SENSE(ちなみに夢占いだとクジラは希望の象徴らしいよ!それはそれでいい感じだね!)、きゃんめいき・フェイクのピンクと水色の照明演出やニシエヒガシエの間奏でクラップを煽るピンクと水色の手=SENSEカラー、と五感を彷彿とさせるものになっていたりフェイクのプリズムモニターの映像はそのまま五感を縛るものになっていたりしたんじゃないかなと思えたり。
あと面白いのはREMで「見たくもない要らない要らない」WALTZで「必要としないなら耳を塞げ」フェイクで「飛び込んでくる音〜」と歌っていること。普通に考えたら「否定」する歌詞が連ねられたこのパートはネガティブなものとして捉えるのが当然だとは思うんだけど、これまで考えてきたことを踏まえるとこのネガティブの陰にポジティブへの転換力を秘めたものとして捉えられるんじゃないかと思います。よく考えればMr.Childrenの詞はどれもネガティブから始まっていつのまにかポジティブに転じている、ってものが多いから(よく読むと歌詞の中で特に解決策や具体的な打開策が見つかったりしてないのに前向きになるって詞が多かったりする)(それでも強引さを感じない、実際元気づけられちゃうんだから音楽の魔法を感じてしまう)、これは特筆するようなことでもないのかもしれないなぁ。より高く飛ぶために一度しゃがみこむ、一度沈む。それによって元より大きく飛ぶことができる。次の段階に進める。あるいは振り子の原理と同じで、一度ネガティブに振れることでポジティブに向かう原動力が生まれるのかもしれない。

で、この五感の解放によって得られるものが何かというと、フェイクの段で考えたように想像力であり愛であり、羽が象徴するものの対応から考えられるように可能性であり、希望であり、自由なのではないのでしょうか。
目に見えるものや耳で聴くものに囚われずに、自由に想像力を働かせることで可能性が開ける、希望が見える。そんなメッセージが透けて見えるような気がしました。




*光と影

「光の射す方へ」で自身が光と化し、「I wanna be there」で「このライトは皆さんが持っている"明日は今日より前へ進むんだ"という意思のメタファーです」と、今度は私たちが光を持っていることを示してくれた。ここから彼らが描こうとしているものはなんだろう。なんでライブ冒頭で一度光を示して、今度はアンコールに入ってスマホライトで?最初この段で全部回収しようとしたんですがあまりにごちゃごちゃになったのでこれについてはまたセットリストの段で触れたいと思います。その代わり、以下、少々どうでもいいお話を。↓


*パンドラの箱(匣)
ツアー中盤あたりで自分の中に浮かんできたこの言葉。本当にただの妄想みたいなお話なのでお暇な方だけお付き合いください(笑)
「パンドラの箱」、というとギリシャ神話に出てくる物語のひとつ。パンドラ(パンドーラ)という娘が「絶対に開けるな」と申し付けられた箱を渡され、やがて好奇心に抗えず開けてしまい、箱の内から封じ込められていた疫病や災厄がこの世に放たれてしまう、というのがあらすじです。この時パンドラが箱を急いで閉めたために箱の内には「不確定性」が残り、人々は予め定められた未来を知る絶望を味わわずに済むようになった、ということなのですが、自分が最初にこの物語を知ったのが自分の大好きな漫画の中で、そこではこの話は「世界に光が残された」という形に締めくくられているんです。
それで何を思ったかある公演で私は「あっわなびーのあの光ってパンドラの箱の神話で箱の中に残されるやつなんじゃない!!!!」なんて思ってしまったんですね!!!!!!!!(笑)しかもあれなんですよ、太宰治の小説に同題の「パンドラの匣」(漢字が違う&この小説はパンドラの箱の神話はほぼ関係ない療養所での青春恋愛物語なんだけれどね)という物語があるんです。以下、どこかの誰かさんが芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と太宰治の「斜陽」を内容総スルーで使ったりもしたから可能性はなくない!!と思ってしまった私さんの妄想劇場です( ˘ω˘ )

まず事の真意を探るため私はギリシャ神話をなるべく直訳or日本でも早い時期に翻訳したものを探しました。私は英語が苦手(ほぼ嫌いの域)なので日本語で原文に近いものを読みたかったんです。「光」という形容が本当にあったのか確かめたくて。
そして見つけたのが明治時代に翻訳されたものを引用しさらに現代語に再訳した以下の書籍でした。出てくるプロミシューズ、エピミシューズはタイタン族の神の兄弟です。プロミシューズは『先慮』の神で常に先々のことを考え用意周到、エピミシューズは『後慮』の神で過去しか省みずこの先のことに思いを巡らせない。以下、引用を示します。(だんだんレポートじみてきたななんだこれは)
(一)火の由来
プロミシューズは下界へ降り、人間の様子を調べた。サターン国王の黄金時代の姿は影さえなく、痛ましく思う気持ちが募ったからである。人間は虫けらのように地中の穴に身を隠し、火の気がないため寒さに慄え、食べ物がないために飢えて死んでいく。そこまでいかなくても、野獣や他の人間に襲撃され、一刻も安心できないでいた。人間は動物の中で最も憐れむべきものになっていた。
プロミシューズは「ああ、せめて火だけでも持たせたら、彼等はからだを暖め、食べ物を焼くことができよう。それから器を造り、家も造ることができよう。火がなければ、鳥獣よりもずっと劣っている」と嘆いた。
ついに彼は決心し、ジュピターに人間の惨状を訴え、火をお与えくださるようにと歎願した。ジュピターは即座に「だめだ、それは決して許さない」と拒んだ。「思ってもみよ、もし人間に火を与えたら、力も知恵もついて、われらを追い落とすようになるだろう。彼等はいつまでも寒さに震わせておこう。獣のようにしておこう。(後略)」といった。
プロミシューズは反対する言葉もない。けれども人間を助けようと思う決心は堅かった。(中略)
「さあ、これで人間は火を手に入れることができる」と叫びながら、太陽の近くに来た。朝焼けの空は晴れ、太陽はちょうど金色に光りながら昇ろうとしていた。プロミシューズはためらわず、長い葦の髄を、その炎に近づけた。たちまち火のついた髄を、芦の管に隠し、すぐにもとの国へと急ぎ帰ってきた。
プロミシューズは洞穴の中で震えていた人々に火を与えた。どのようにからだを暖め、どのように他の火を作ったらよいか教えた。暖かな風が洞穴に満ち、男も女もあの太陽よりの賜物のまわりを囲んで、口々にプロミシューズの大きな恵みに感謝した。
人々は食べ物を火で焼いて調理する方法を学んだ。暗い洞穴から明るい世界に出て来た。新しい生命の火を躍り上がって喜ぶ人々に、プロミシューズは満足し、次々とたくさんのことを教えた。
(後略)

(二)疫病憂苦の由来
(前略)
ジュピターがプロミシューズを罰するのは簡単だったが、わざとそれを急がなかった。人間に対し不幸を与えようと、世にも奇妙な、また深慮遠謀ともいうべき方法を選んだのだった。
まず鋳物の神バルカンに、一塊の土を与え、それを女の形に作らせた。(中略)
ジュピターは「さあ、おのおの好きなものを、この少女に与えよ」といい、まず生命を授けた。他の神々も、思い思いのものを与えた。(中略)
それから少女をパンドーラと名づけた。その意味は、神々よりいろいろなものをいただき、完全無欠の姫ということだった。(中略)
やがてジュピターは、翼を持つマーキュリーに姫を預け、あのプロミシューズ兄弟の所に連れて行かせた。兄弟は今もなお、人間を幸福にすることを考え続けていた。
マーキュリーは弟を呼び、
「やあエピミシューズ、ここに美しいおとめがいる。あなたの妻にと、ジュピターが贈ってくださったのです」といった。
こんなことがある前、プロミシューズは折にふれ、弟に「ジュピターの考えることは信用出来ないから、たとえどのような贈物があっても受けてはならない」と戒めていた。
しかしエピミシューズは、パンドーラを一目見ると、その愛らしさ賢さに心を奪われ、兄の戒めを忘れてしまった。姫を館に連れて行き妻としたのだった。エピミシューズとパンドーラの新しい家はこの上もなく幸福だった。兄のプロミシューズすら、この姫を見たら喜ばずにはいられなかった。
パンドーラ姫は黄金の匣を持っていた。マーキュリーについて山を下りる時、ジュピターが下さったもので、中には貴い宝がたくさん入っているとのことだった。しかし大気を司る思慮深い女神アシーナは、絶対この匣を開けてはならない、匣の中を覗いてもいけないと、姫を堅く戒めていた。(中略)
そう思うにつけ、どうしても知りたい、見たいという思いが、どんどん強くなっていった。(中略)
姫はついに「アシーナの言葉をそんなに気にしていたのは愚かなことだわ」と思った。(中略)
姫はほんの少し蓋を開けて中を覗いた。と同時に、ものがきしむような異様な響きが、匣の中に起こった。姫が驚いて蓋を閉めようとする間もなく、中から百千もの小怪物が躍り出た。怪物は蒼白い死の影を宿し、からだ全体が骨ばっていて、その浅ましい姿は今まで見たことがないようなものだった。
しばらく部屋の中を駆けまわっていた怪物やがて、隙間から一斉に外へ出ていった。それは「疫病」と「憂苦」の妖精だった。この時まで、病や心の苦しみを知らなかった人間たちの家に飛んでいった。
人々の目には見えないまま、隈なく国中を飛びまわり、這いまわり、痛み、悲しみ、死をまき散らしてしまった。
しかし、パンドーラ姫が蓋を閉めるのが、もっと遅かったら、結果はさらに悪く、このくらいでは済まなかったであろう。姫は最後の怪物が匣から出ようとした時、す早く蓋を閉めた。この怪物は名を「前知魔」(Foreboding)という。もしこの怪物が外に出てしまったら、人々は幼い時から自分の一生に起こる先々のことを詳しく知ることになってしまう。世に希望というものがなくなってしまうだろうと思われる。
これらのことはみな、ジュピターが考えたことであった。プロミシューズが人間に味方する前より、もっと悲惨な状態にしてやろうと計画したのだった。
──ジェームズ・ボールドイン著・杉谷虎藏訳「ギリシャ神話[新版]」(2011年7月11日)

─というわけでここからわかるように「光」なんて言葉は使われてなかったんです(笑)でもこのお話で興味深いのは、火及び光を手に入れたことによって人々が知恵をつけ、その罰として災厄がもたらされたということ。また、未来を知らないということで希望が残された、ということ。
……前者はアダムとイブの物語で知恵の実を食べ理性を得た人間がそれゆえに苦難に身を投じることになったニシエヒガシエ、FIGHT CLUBからの流れ、後者はTomorrow never knowsに当てはめることが出来るんじゃないだろうか?なんて考えて、こうしてものすごーーーーーく遠回りする形で「そっか、このライブの結論ってTomorrow never knowsなんだ」なんて考えが浮かんだところで、セットリストのお話へ続きます。
(あ、あと怪物が憂苦を与えるということで軽率に「スタオバ!!」とか言いかけた私がいたとかいなかったとか)




*REFLECTIONの解体/再構築
ツアーが始まったばかりの頃一番多く見かけたのがfantasyの位置への違和感への言及だった気がします。実際私もはじめ1曲目でないfantasyに戸惑いましたし、逆に1曲目の未完にも混乱しましたし、他に言えば「僕らの足音」じゃない、しかも進化論→足音→幻聴ではなく進化論→終わりなき旅→幻聴→足音という終わりなき旅に元いた位置を譲る形で本編最後に来た足音に困惑しました。
でももしかして、それが狙いだったんじゃないか。だってこのセットリスト、逆に不自然なくらい見事にこの「そこじゃない!」「それじゃない!」をやってのけてるんです。
"1曲目じゃないfantasy"、"僕らの足音じゃない足音"、"そこからはじまる未完"、"毎公演で奏でられるStarting Over"。なんかもう見事じゃないですか、これ(笑)これってもしかしてZepp・REFLECTIONツアーをぶっ壊す形でのセルフパロディだったんじゃないかなと思うんです。Zepp・REFLECTIONツアーでその曲そのものをプレゼンテーションしたのだとすれば、今ツアーでの「REFLECTION」収録楽曲はそこから一歩踏み出して新旧の曲を織り交ぜて別の物語・今のMr.Childrenを魅せるモチーフとして奏でられたんじゃないかな。……簡単に言ったけどこの新旧の幅がほんとにデビューアルバム~最新アルバムまでっていう全キャリア・バリエーションのフル動員なんだからとんでもない(笑)

あともう一つこの解体を考える上でのキーとなったのがPOPSAURUS2001でした。PS2001といえば、「Mr.Childrenをフラットにする」という意味も込めて発売されたベストアルバムを引っさげ、ファーストシングルの君がいた夏から最新曲優しい歌までを網羅する形で行われたツアー。このツアーもスタジアムツアーでしたが、類似点として見るべきなのは「新旧の作品を織り交ぜ、Mr.Childrenが自らを一度滅ぼした花(深海期の象徴ともいえる)をも取り込みPOPSAURUSとしてまた音楽を鳴らしていく宣戦布告をする、という物語を描いたこと」。そしてここで行ったのが、アルバム「深海」の楽曲を部分的に解体しつつライブの1コーナーとして取り入れ、一つの物語を描く要素としてしまったこと。解体、再構築。この取り入れ方がもたらしたものは、「深海」の楽曲の「深海」という文脈や時代からの解放だったと思うんです。
と、考えると、REFLECTIONの楽曲を今回ZeppやREFLECTIONツアーで鳴らされた曲順から外して奏でたり、あるいはそれらのツアーと同じ数曲セットでセットリストに組み込んで別の物語を描いたことは、まさしくPS2001と同じ文脈からの解放を狙ったものだったんじゃないかと思えるんです。たしかに一生fantasy1曲目でやるわけにはいかないしね(笑)ここでそれぞれの曲を一曲一曲に戻してあげたんじゃないかな。
CHILDREN''''S WORLDをやったことと空にかえす的なことで空ツアーとの関連も考えようともしたけど観たことないからわかりませーん!!(笑)





*セットリストの描く物語

さて、ここまでいろんなお話をしてきました。ここで改めて自分の思ったセトリのお話をば。

まず運命までのパートでの主人公?主導権?は基本的に彼らにあるんじゃないか、と思います。CHILDREN''''S WORLDは「彼ら」が前面に出たその最たるものだし、光の射す方へで光を持っている、光を放つのはさくらいかずとし。細かくこの曲がどう!!とか見ていったらセトリがつまらなくなっちゃうからやりたくないんだけど、とにかくこの時の「光」はあくまで彼らのものだと思ったんです。

そんな疑うべくもない世界観から一歩を踏み出すのはファイトクラブ!「いつも無邪気でいるわけにはいかず時には敵が現れ闘わなくちゃいけない」という導入から争いのある世の中が示唆されるわけですがだんだん面白くなくなってきたから中盤すっ飛ばして本編後半(笑)
REM~フェイクで五感を否定したところで次曲のALIVEがターニングポイントなんじゃないかなと思ってました。「やがて何処かで光が射すだろう」、照明や演出でネガティブがポジティブに変化するのを示唆するとともに、ここでルームランナーで歩いても歩いても進まなかったのから一転し進めるようになっての「さぁ行こう」。ここからの流れが本当に秀逸だと思うんですが、「さぁ行こう」を受けるように進化論ではあの生き物が歩き続け、終わりなき旅では「また光と影を連れて進」み、幻聴では「やっと一息つけるねって思ったのも束の間また僕は走り出」し、足音では「また光を探して歩き出そう」。そう、いつの間にか見事に光を見つけ歩き出しているんです。そうして光を見つけた足音は本編のどの曲よりも明るい光の中で奏でられます。(いつも「この明るさだと泣き顔丸見えだからこまる」って思ってたからよーく身にしみてる……)

そしてその見つけた光は私たち自身の中にあるものだと言ってくれるかのように、スマホライトでステージを照らすようアンコール時の彼らは促す。しかも終わりなき旅でステージと共に歌い、幻聴で誰かの・みんなの微笑みの力を示し、みんなの足音の力強さを称えることを経て、「光の射す方へ」ではステージ側のものとして示された光がいつの間にかごく自然に私たちのものとして今度は会場を照らすんです。こうして自然に君たちも光を持っているんだよ、と教えてくれるんです。
そしてその光は何かといえば、「今より前に進む意思」(I wanna be thereMCより)。だから蘇生で「暗闇から僕を呼ぶ明日の声に耳を澄ませる」。もう心に光(虹)があるから暗闇の中でも大丈夫。
そしてTomorrow never knows。「今より前に進むためには争いを避けて通れない」、それでも「果てしない闇の向こうに手を伸ばそう」「心のまま僕はゆくのさ誰も知ることのない明日へ」。今までのこのライブの物語そのままだと思えてなりませんでした。
それでさ、それでだよ、その物語の果てにあるのはなんだと思う?イノセントワールドなんだよ一体どんなカタルシスだよ  最  高  す  ぎ  る  だ  ろ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!祝砲のように放たれるテープたち!!!!笑顔!!!!パンパパン!!!!ジャンプ!!!!歌えるうううう?????!!?!!いーつーのひーもーこのーっ!!むねにーっ!!!!ながーれーてるめーろでぃー!!!!!!!!(泣)(泣)(泣)(泣)(今この文章を書いている自分が一番救われてる感ある)
もうしっかり、今度こそライトによるメタファーでも何でもなく「微かな光を胸に明日も進んで行くつもり」なんです。もう、完璧。最高。Mr.Children、最高。イノセントワールドがMr.Childrenなの、めっちゃわかる。(大真面目)「微かな」なあたりのリアリティー(大真面目)
で、物語の果てとか言ったけどもう1曲あります勿論(笑)でももう敢えて言及する必要はないんじゃないかな。ここで今度こそ暗闇が消える。光が満ちる。
本当に見事な光の物語、大団円。そんなものを見た気がしました。


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